先日知人(古くからのマシーネラー =A)と話している時に、「fgってマシーネンだらけだよね」という話から「最近のマシーネンってどうも排他的/閉塞的/画一的だよね」という話になり、「スケールモデラー的視点で見るとマシーネンってディストピア的だよね」なんて結論に達したのでその事について備忘録的に書いておく。
そもそも、スケールモデルとは不自由を楽しむジャンルであると言える。例えるなら伝統芸能のような物で、厳然たるお作法(現実の実物に出来るだけ沿った物を作る事)が存在し、それに乗っ取った物を作る事が良しとされる世界。それは例えば戦車ではエッチングを使いプラスチックの限界を越えて現実のリアリティを再現する事であったり、飛行機で見えないエンジンのパイピングを鬼のように作り込む事であったり。
対照的にマシーネンは一見自由に見える。それは塗装の自由度であったり、勝手なディティールアップの許容であったり。そこには何でも出来るかのような雰囲気が存在する。ただしその実マシーネン"的"でなくてはいけないという不文律が存在する。このマシーネン的という物は抽象的で、スケモのお作法と違って明らかではない。曲線を多用すればマシーネン的なのか。AFS(非SAFS)を見る限りそうではないだろう。
一例としてはブリックワークスのお姉ちゃんフィギュアに対する一部の批判。「乳が大きすぎる」だとか「そんな美少女モデルみたいな物を有難がって」は、そのマシーネン的ではないと判断された結果であると考えられる。
閉塞性/画一性の例としては、上の例とは逆にfgにおけるMa.K作例の女性フィギュアの使用頻度が上げられるのではないだろうか。とりあえず女性を作る。とりあえず女性を隣に立たせる。とりあえずS.A.F.Sの殻を割ってお姉ちゃん乗せる。他のチョイスは?親父を立たせてみるつもりは?女性の肌を緑に塗ってみる勇気は?未来に人間が同じ色である保証は?
冬に古くからのマシーネラーである知人(B)と話をした時に、彼が曰く「昔は本当に自由だった」と。AもBも言っていた共通の内容として「一部の声がデカい人達がマシーネン的/非マシーネン的と叫んでいるが、本来そんな物はない」と。言い換えれば、現在は新参者(という区別はどうかと思うが)の中で声がデカい人達がマシーネン的という尺度を押し付けているのではないか。
本来マシーネンとはスケールモデルと美少女フィギュア/キャラクターモデルの中間に立っていた物で、その許容度は本当に広く、お姉ちゃん寧ろドンと来い、的な世界であったとAもBも言った。同時に批判は手を動かして表現する物だったと。
ある意味でとてつもなく窮屈なスケールモデルという社会から抜け出して、自由な新世界たるマシーネン世界にやって来たが、そこも上面こそ自由には見える物の中ではマシーネン的/非マシーネン的という別の不文律に縛られた社会だった。
=実はマシーネン世界の方が、ジョージ・オーウェルの1984等に代表されるディストピア的で、よりマズい状況なのではないだろうか
とかそんなお話。
じゃあ、今日はここまで。